対話はきっととてもたいせつ。

占いやコーチングの時間にお客さんとお話していてよく思うのは、みなさん本当は自分のことをわかっていらっしゃるよね、ということ。

ただ、わかってらっしゃるとして、
「世の中的には人ってこうでなくちゃいけないよね」という刷り込みとか、近しいところにある他者と比較して「こういうのがよいことのはず」があると、そちらの方が先に上に出てきて、
自分自身の実感はないわけではないのに奥深くに埋もれていて見えないことになっていたりする。…気がする。

そういう時に必要なのが言葉で。
言葉ってものすごい発明だったんだと思うのだけど、
言葉にする、言葉にされることでつながる。
あるんだかないんだかわからなかったことが「ある」と認識できたりする。
言語化することで認識できる…ということ?

もうひとつ、意外と人は必要なんですよね。
時には他者は壁のようなものかもしれないけど、
関わりながら、自分の形を確認していける、そういう存在でもあるんだと思う。

共感から安心するということだけじゃなくて、違和感からも「そうじゃない、自分はこうなんだ」ということを教えてくれたりもする。

自分だけではうっかりすると、考えがずずずーっと偏っていってしまうことって結構あるんですよね。
だけれど本当にそうなのか、というひきもどす力には客観視だったり、風穴をあけるようなものだったり。
そこにはやっぱり人なのかなって。

わたしは仕事としてどなたかのお話を伺っているけれど、
そんなふうに自分のことを使ってもらえたらいいと思う。
それは安心―どんな人も存在していていい―というところからも、自分自身のかたちを確認していくということからも。

 

コーチングも占いのセッションも、あなただけのための時間です。
奥にある自分自身とか、やりたいこととか、あなた自身が生きていることを確認するような時間。

だけれど、特別にセッションなどを受けなかったとしても、
自分の感覚を大切にしながら人と対話していくことができたら、自分を確認していくためのたくさんのヒントにあふれているのだろうと思う。
きっとそれは日常の中でなんとなくなんとなく当たり前に。

 

上に書いたことはお客さまとお話していた時に出てきたことからのつながりでもあり、
わたし自身のことでもあって。

わたし自身がいつも自分の考えとかあんまりわからないというか、大切にできなかったんです。
その場に合わせることの方が前提で、そうしていればいろんなことがうまくまわるはずって思ってた。

うまくまわるのはそれなりにまちがいない。
だけれどそこは自分の気持とか考えは尊重しないという前提があって。
そんなことをやりつづけてきたからか、実は自分自身は未だに自分の考えとか、自分がどういう人間かとかよくわからない。

だけれど、うっすらとその都度「いや」という感じはあって、
そういうの大切にしてこなかったことでいろんなトラブルを引き起こして傷ついたり傷つけたりということもたくさんあった。

だからいろんな人に、どんな感情でも大切にしたうえで(喜怒哀楽どれだってだ)、人と関わっていってほしいと思ったりする。
それが健全だし、たとえばそれでなんらかの一時的に複雑な感情や状況に陥ったとしても、自分がほんとうに大切な場所にたどりつくための道のりになる。
相互で。

ちょっとまとまりないかな、とも思うけれど、
そういうことがコミュニケーションのひとつの役割なんじゃないかなって。
そんなことを考えています。

 

とまあ、ここからいつもどおり宣伝でして…。
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びっくりですけどもうすぐ春。